今回は勉強する理由についてお話ししたいと思います。
おそらく、この記事を見ているのは中学生の方か高校生の方か、はたまた勉強しなおそうとしている社会人の方ではないでしょうか?
勉強を始める前に、勉強をする意義について考えることは非常に良いと思います。
学問のすすめによる、勉強する意義とは?
勉強する意義を考える前に、福沢諭吉の著書で有名な「学問のすすめ」の一節を読んでみたいと思います。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
「学問のすすめ」
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
簡単にいうと、人はもともと誰もが能力に優位性はなく平等に生まれてきているのに、周りを見渡すと貧乏な人、金持ちの人、貴族である人、身分が低い人がいる。
この原因はなんであるのか?勉強しないからである。
といったことが書いているんですね。
よく学校で「学問のすすめは人類が皆平等であることがこの一節に書いてある」と言っている教師がいますが、あれは大嘘で、どっちかというと能力としては平等だといっているに過ぎないのです。
つまり、100年以上前から、勉強する意味というのは自分の人生を創り上げるためにあると書いてあるのです。
勉強しなくても良いけど・・・
私は昔、小学校の頃から学校に行かない人たちを見る機会がありました。
筆者自体、当時の学力は学校内では中の下の下、もしかすると底辺に近かったかもしれません。
その当時の自分の学力を省みても、彼らの学力は凄まじく酷かったのを覚えております。
具体的にどの程度酷かったのか、一例を挙げてみると
- ひらがな、カタカナが読めない
- 足し算ができない
- 一次方程式がわからない
- ローマ字が読めない
- 常識的な言語がわからない、「検討する」「挙動」。。。
嘘!?と思う方もおられると思いますが、全部本当です。
筆者も成績はものすごく悪かったですが、上記のようなことはありませんでした。
なぜ、このようなことになったのでしょうか?
理由は簡単で、学校に行っていなかったからです。
また、その方々の両親も勉強の大切さを理解していないのか、全く深刻に思っていなかったのです。
勉強しない場合の末路
では、勉強しなかった方々はその後の将来にどうなったのでしょうか?
私の知っている限りでは、彼らは土方や清掃員など肉体労働が多い職業につきました。
そして、労働形態も毎日それほど変化を必要としない、また知識を必要としない職業についている特徴がありました。
ここで、勘違いして欲しくないのが、別に肉体労働の職業を否定しているわけではなく、勉強せず、学がない場合、自動的に肉体労働で複雑な作業内容でない職業しか勤められないということです。
もちろんそういう職業が好きで勤めるのならば全く問題ないですし。
天職が見つかったということで幸せなことだと思うのです。
ただ、ここで言いたいのは勉強しないと、職業の幅が狭まるということです。